人は「完璧」を求めつつ、「完璧ではないもの」にこそ、愛おしさを感じる生き物だと思いませんか?
そもそも、世の中の9割くらいのモノ・コト・ヒトは「完璧ではないもの」に属する気がする。
自分もまたその9割の中に属しているからこそ、完璧でない自分自身を、潜在的に肯定したい意思の表れなのかもしれない。
すごく美味しくてサービスも良い、いわゆる完璧なレストランに星をつけること。
「ミス〇〇」や「ミスター〇〇」みたいな、容姿や学歴などの優れた人たちに称号を与えること。
これらは、「完璧なモノやヒトは、ありふれた存在ではなく、選ばれし特別な存在なのだ。」という意識づけのために、敢えて神格化する作業。言い換えれば、完璧ではない者の一種の自己防衛。そんな風に、都合よく考えている。
そして、コンプレックスを「可愛げ」や「味」と捉えることは、自己肯定としてとても有用なはずなのだが、なぜかそれを自分自身に落とし込むとなると、途端に難しく、なんなら拒絶感すら感じる人も多い印象がある。
たとえば、SNS上で憧れていた綺麗なモデルさんが、ふとした時に手抜きごはんやすっぴんダル着のだらしない私生活を見せた時は親近感を感じる。それなのに、日々頑張っている自分自身がなかなか片付けができないこと、肌荒れしちゃったこと、仕事でミスしちゃったことなんかは、許せなくていつまでも引きずってしまう…とか。
私自身も絶対的に「完璧じゃない者」なのに、それでも「完璧を目指すことを諦められない者」として長年もがいてきた。
最近になってやっとその生き方のしんどさに嫌気がさしてきて、もっと心地良く生きる方法ってあるよね?と、気付き始めたところ。
なかなか痩せない身体も、ちょっと散らかった部屋も、本気を出せば及第点には到達しそうな状態をキープしつつ、敢えて抜く日があってもいい。
完璧ではないけれど、「ほぼ完璧」くらいまでは頑張れる。(ダイエットに関しては、まだまだ頑張れる余地があるという見方もあり。)
ただ、こうしてゆっくり自分のペースで、決して怠惰ではなく無理のない範囲を捜してコントロールすることが、「生きる」という行為を上手に楽しんでいるようで、ちょっと好きになれそうな気はしている。
これまでの自分の人生の中に少なかったこういう「可愛げ」というものが、年を重ねて角が取れるように増してきているのだとしたら、嬉しい。

最近は晴天が続いていたので油断していたけれど、久々にしっかりと雨が降った日。
少し外出するのが億劫ではあったけれど、先月から約束していた友達との約束があったので、気合を入れて準備を始める。
そういえば、結婚してもうすぐ3ヶ月くらいが経つのだけれど、恋愛が落ち着くと、久しぶりに会う女友達とのお出かけの日が一番ファッションもメイクも気合を入れたくなるのは、女性あるあるでは?などと思っている。
でも、雨だし。なんなら、暴風だし。どれだけ完璧に準備しても、お店に着く頃には雨風に揉まれてヘアスタイルは終わるのだ。
「雨で髪の毛がボサボサになっちゃって~」と言い訳するところまで頭の中でシミュレーションして、その時の自分がギリギリ悲惨に映らないであろう具合にヘアセットをした。(ちなみにこの言い訳のセリフは、合流時と帰り道の合計2回言った。)
この日会った友達は、年下の韓国人の女の子。
とある交流会で知り合って以降、お互いにグルメが趣味ということで意気投合し、定期的に食事をしている。
私は元々韓国文化や韓国人女性のライフスタイルに関心があり、YouTubeでそういった類の動画をよく見ていた。
彼女と関わることは、今まで画面上で見ていた憧れの存在とリアルで交流できる感動のようなものもありつつ、彼女自身の人柄や親しみやすさによる親近感も生まれた。
特に彼女の話す言葉が好きで、いわゆる「カタコト日本語」なんだけれども、何を話しても概ね理解してくれるし、しっかり私も理解できる言葉で返してくれる。
聞くと、まだ半年くらいしか日本語を学んでいないと言う。それで、こんなにストレスなくネイティブの外国人と会話ができるものなのか…。と、私は感動したけれど、彼女が言うには「自分の日本語はまだまだ良くない」らしい。
彼女が日本にやってきた目的は、日本で就職して言語やさまざまなノウハウを学び、とある分野で開業すること。
目指す分野の知識を学ぶのに、日本にいることが最適なのだそう。
20代も半ばを過ぎてから、言葉も分からない異国の地に一人でやってきて、しかも就職活動をするって、相当エネルギーが必要なことだと思う。
彼女は実際にここまで言語を習得して、就職先も決まって来月から都内で勤務する。
凄すぎる!
今日は、その就職祝いだった。
彼女との会話はストレスがないと言ったけれど、もちろん100%間違いがないわけではない。
ニュアンスとして言いたいことが伝わるけれど、正式な日本語テストとなれば「×」をつけられてしまうであろう表現やワードチョイスは往々にしてある。
たとえば、「AとB」という比較を伝える場面では、そのまま「AとB」と言えば良いところを、彼女は「AまたはB」と言う。
間違いではないけれど、友達とカジュアルに話す場面において、「または」という接続詞は一般的ではない気がする。
あと、約束が決まったあとのメッセージで、「会えるのを楽しみにしてるね」という意味合いで、「お楽しみ♡」と送ってくれる。(超かわいい)

そういったチグハグを感じつつも、意味は合っているし、会話をわざわざ止めてまで指摘するほどのことでもないし…。
彼女から間違いがないかを問われた場合には答えるようにしているが、毎度こちらから言葉を正すようなことはしない。
何よりそんな感じのワードチョイスで繰り広げられる会話が可愛らしくて、私はとても好きなのだ。
もっと沢山話してほしいし、ラジオを聞いていたいくらい。
でも、本当にラジオか?というくらい彼女はとてもよく喋ってくれるので、楽しい。
そして、せっかくなら私も韓国語を身につけたいと思い、彼女にいくつか単語を教えてもらったことも。
彼女の真似をして、同じように発音しているのにも関わらず、「可愛い!」とキャッキャキャッキャ喜んでいた。
たぶん、私が彼女の話す日本語に感じていたのと同じように、私もしっかりカタコト韓国語を話していたのだと思う。
あぁ、まだまだ私は無意識に「完璧な側」の立場になっていたのかもしれないな。と、思った。
でも、同時にカタコトで話す自分の可愛らしさを、まるっとそのまま受け入れたい気持ちにもなれていた。
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